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Instant

新米物書きの戯れ言

今のぴえろができるまで

初めまして。高野ぴえろです。

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ブログをはじめるにあたって、自己紹介をしたいと思う。

今では天然で通っている僕だが、ドジなのは昔からだった。
幼稚園に入る前、家族で広い公園に遊びに行った。
季節は夏で、池にはびっしりと小さなハスが浮いていた。
僕はそれをすごく平らな芝生だと勘違いして、全力で走っていった。そして、ものすごい勢いで池の中に落ちた。
踏んだ瞬間は、地球が割れたのかと思った。
パニックになった僕は溺れて、助けてくれた知らないおじさんの手はハスだらけになった。
父親はそれを見て爆笑していた。でも、これは彼のDNAのせいだった。

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幼稚園に入った僕は、友達の腕を噛んだり、砂場でおしっこしたりとやりたいほうだいだった。
ある日、年長だけが行うお絵かきの授業があった。
僕はそれに勝手に割り込んで絵を描いた。
その絵を園長が気に入ってコンクールに応募すると、大賞を受賞してしまったことがある。
創造性は豊かなこどものようだった。

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小学校に入ると、僕は家が転勤族であることに気がついた。
毎日顔を合わせて作った友達を何度もリセットされた。
しかも、僕は友達を作るのが下手だった。
幼なじみの頼れる親友がいないのは辛かった。
それでも、僕と仲良くしてくれた友達の名前は今でも覚えている。
友達が少ないだけに彼らの存在は僕にとって大きかった。

引っ越しを繰り返しながらも、僕は頑張っていた。
あるときは学校の生徒会をやり、全校集会で女装したりもした。
内気な自分を変えようと努力した。

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小学校4年生のとき、忘れもしないことがあった。
クラスに女の子が入ってきた。
僕と同じ転勤族の家の子だった。
彼女は性格をこじらせていて、いわゆる中二病だった。しかも、席は僕の隣だった。
その子は僕が一番仲良くしていた親友のことが好きだったみたいで、僕にちょっかいをだすことでその親友の注意をひきつけるやらなんやらで、ことある度に「作戦成功!」と叫んでいた。
あたりまえだが、僕はその子のことが嫌いだった。

ある日、その子は交通事故に遭った。
大型トラックにひかれて、15m先のフェンスまでふっとばされた。
彼女は病院で、生きるか死ぬかの狭間をさまよった。
学校のクラスでは千羽鶴を折ることになった。
その子のことが気に入らなかった僕は、あまり気が進まなかった。
あろうことか僕は、赤色の折り紙をとりだして、裏に「死ね」と書いた。
それを鶴の形に折って、みんなと同じように教卓へ提出した。
そのことは、僕しか知らないはずだった。

結んで束ねた千羽鶴はPTAのお母さんが代表して病院へ持って行った。
渡す前に、そのお母さんはあることに気がついた。

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赤色の千羽鶴が結ばれていた。
赤色の折り紙は縁起が悪いから、裏返して白の鶴を折るようにクラスのみんなにはお願いされていた。
お母さんは赤色の千羽鶴を一旦折り紙に戻して、白の鶴を折ろうとして、僕の書いた文字が現れた。
クラスで誰が書いたのか先生が聞いて、僕は手を挙げた。
自分のしたことがどういうことか、それからようやくわかってきた。
人が死ぬと言うことがどういうことか、僕はよくわかっていなかった。
このときのことは、もう一生忘れないと思う。
あれから僕は、冗談でも「死ね」という言葉を使わなくなった。


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中学に入ると部活でハンドボールを始めた。
それからすぐに転校になって、僕はあえてハンドボールの名門校を選らんだ。
中学校の部活は生徒を選べない。そんな環境の中でそこの監督は毎年コンスタントに勝ち続けていた。
結局、僕はレギュラーにはなれなかったけど、チームは全国大会まで進んだ。
この3年間で「正しい努力をすれば報われる。意味の無い努力はただの苦労」であることを学んだ。

中学をでて、高校に入った。
ここで僕はクラスに馴染めなかった。
夏が過ぎてからはいじめに遭ってクラスのみんなから話しかけても無視された。
僕は高校を辞めた。

そして、働いて、鬱病になった。

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この頃のことはよく覚えていない。
本当に記憶がぼんやりとして、思い出すことができない。
ただ唯一覚えているのは、あるとき僕が母さんに「追いかけられている。引っ越さなきゃいけない」と言い始めたことだ。
そのとき、母さんは泣いていて、僕はどうして母さんが涙を流すのかわからなかった。
典型的なパニック障害だった。

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僕は名古屋にある通信制の高校に入り直した。
四年制で、年16回のスクーリング以外はすべて授業をレポートで行う学校だった。
そのたった16回の登校日は僕にとって、大事なリハビリの場だった。
この頃の僕は言葉がのどにつっかえて、上手く話せなくなっていた。

学校には購買がなかったので、お昼は外に食べに行かなければいけなかった。
僕はいつも何人かの社会人の人と食べに行った。
この学校では半分以上の人が社会人だった。
このとき、お昼を食べながら目上の人達と話したことは、僕にとって大きな財産だった。
王将のラーメンをすすりながら、社会に出た人達の話を聞いていて、高校という世界がいかに狭いものだったかを知った。

高校2年の終わり、大学を受験することを決心した。
親にお願いして、予備校へ通うことになった。
はじめに簡単な学力テストを受けさせられた。
私立志望で使う科目は3教科だったので、テストの結果は三角の図で表された。学力が高いほど、面積が大きくなる仕組みだった。
僕の図には何も書かれていなかった。
先生に印刷ミスではないかと問うと、これが君の成績だと言われた。
頭が悪すぎて、僕の学力は図には表示されなかった。
偏差値は26。
図の真ん中の米粒みたいな点が僕の学力だった。

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それから受験まで、僕は死ぬ気で勉強した。
途中、引っ越してからも、そのペースは衰えなかった。
京都から高校のある名古屋までスクーリングに通いながら、できる限りの時間を自習室で過ごした。
負けっぱなしだった人生を、ここで取り戻そうとした。
高2の冬、偏差値は60代後半をマークした。

準備は万端なように思えた。
それでも僕は、第一志望に落ちた。
帰りの地下鉄のなか、解答速報で丸つけをして、落ちたことを悟った。
僕はそのままいくつも駅を乗り過ごした。
終点で電車が止まって、ようやく僕は乗り過ごしたことに気付いた。
後日届いた合否のはがきには、合格点に7点足りない点数が書かれていた。

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そうして、僕は第2志望の大学に進むことになった。
出席した高校の卒業式では、みんなに進学を祝われた。
通信制からその大学へ生徒が進学することはとても稀な快挙だそうだった。
僕は第2志望を祝われるということが情けなくて、悔しくて、仕方なかった。

そのとき、僕は落ち込んでいたけれど、スタートを考えればよくやったものだった。
僕は2年で偏差値を倍にして、西日本最難関の私立に挑んだのだった。
しかし、当時の僕にとって、結果が伴わなかったことは、大きな挫折だった。

大学に入ってから1年、僕は不抜けた。
人生で初めてゲームアプリをインストールしたりもした。
『リトルノア』というアプリだった。
よほど大学でやる気がなかったのか、僕はそのゲームで公式ライターにまで上り詰めて、界隈では有名なユーザーになった。

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人生で一番無駄な1年だったかもしれないけれど、僕なりの休み方なのかもしれなかった。
そこで知りあった人達とはとても仲良くしてもらって、そのつてを辿って西日本を一周したりもした。
福岡では二泊三日の宿泊費と飯代をすべて奢ってもらった。
ずっと学生とニートと受験生とやってきた僕には、本当に不思議な世界だった。
こじんまりとしたソーシャルゲームのなかにも、生きた人間がたくさんいるのだった。

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(右奥:寒いのにクロックスにステテコのアホが僕だ)

大学1年の終わり、僕はゲームを引退した。
息抜きはほどほどにして、やりたいことをやろうと思った。
まずは昔やっていた創作:小説をまた書くこと。そして、Toeicの勉強からはじめた。
これが僕の近況だ。

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大学は留年した。
受験し直すつもりだった僕は前期の単位をことごとく落とした。
後期で取り戻そうとはしたが、間に合わなかった。
だけど、あまり落ち込みはしなかった。
だって、人生は長いし、それに比べたらこんなこと、小さなことだった。
それよりも、バイトをして学費を稼ぎながら、1年多く遊べることを喜んだ。

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だけど、困ることはあった。
好きな人ができたのだ。
年上の人で、付き合うなら結婚が視野に入るような人だった。
僕は留年したことを呪った。
上手くいくかはわからないけど、必ず幸せにするから付き合って欲しいと言うつもりだ。

以上、これがぼくの21年間だ。
約8000日のほんのちょっとしか伝えられなかったけど、このお話のだいたいのところは伝わったんじゃないかと思う。

結局、居場所はどこにでもある。

何度、転校しても
高校を辞めても
受験に失敗しても
遊びに逃げても

どの場所にも、僕の親身になってくれる人はいた。

これからも僕は、悩んで、落ち込んで、ときどき泣きじゃくるだろうけど、なんだかんだで元気にやっていくと思う。
こんな僕をどうかよろしくお願いします。

ブログの方は不定期で気ままに更新していくので、思いついたときに覗きに来てもらえたら嬉しいです。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
それでは、また次の記事で。